私はきのう死んだ。
こういうことが書けるのも、きょうこれを起稿する2020年10月24日、これから幾日、幾週間生きるのかはわからないが、もし私が死んだとしたらその翌日にこれをホームページに掲載するよう家人に頼んであるからである。
しかし、これは「遺書」でも「遺言状」でもない。
しいて言えば「言い残したこと」の羅列だろうか。
いまさら「言い残したこと」とは女々しいとか、「往生際が悪い」とか言われそうだが、なにそんなことは気にすることはない。と、もう一人の自分が言う。
自分はとにかく、既に、生きている者たちの言葉など届きようもない、遠い「永遠」に向かっているのだ。

『ガンで死ぬのも悪くないかも』という本があった。
この本の趣旨に私は賛成である。
まことに「ガン」というやつは、その人間の「死期」をあらかじめ決め、それではそれまでに何をすべきか、何を言うべきかを問う。無論、その心境にたどり着くまでには多くの葛藤もあるが、しかし――
しかし、その時期を過ぎてみると、残された時間の中で、自分はいったい何が出来るか、自分はいったい何を言うべきかという問い掛けが自分に生まれた。
あと少なくとも10年は生きて言いたかったこと、伝えたかったことが、ここで中断ということになれば、それはそれでやむを得ないとも思うが、もしその10年分を言葉に出来れば、それを、ここに書いておくのも悪くないだろう。
なにより、私には私を見送るはずの私の妻がいるし、同年の数少ない友人たち、
そしてこれも数少ない年少の友人、なにより日本映画学校時代の教え子たち数百人がいる。
彼らに、「ひと足先に」行くだけの私が、私として何か「言い残して」おくのも、
今後の参考にはなるだろう。

まず、私が「言い残して」おきたいことは、残念ながらこの時代と世の中は確実に悪くなるだろうということである。
例えば、自分の仕事にかこつけて言えば、30年前に自分が仕事を始めたころには、原稿は必ずプロデューサーが自宅まで受け取りにきた。
それが、いつのまにか、FAXで送れとなり、バイク便で送れとなり、やがてメールで送れとなった。
これで、ライター、プロデューサー双方が得たものは「時間」、無くせたものは「手間」、そして失ったものは「顔」を合わせること、である。
私は、時代遅れと言われようとなんであろうと、「いまシナリオを書き上げたばかりの」ライターとプロデューサーが、「顔を合わせること」が無意味とは思わない。
丁寧なプロデューサーだと、その場でざっと読み、誤字脱字の指摘や、難読部分の読み合わせ等々を行うので、その後の進行上かえって時間は節約になった。
まして、ホンをつくる事前の打ち合わせが、当時は(旅館とは言わぬまでも)オフィスかそれなりの店が普通だったのが、当今は「ファミレス」か「ドトール」
となってしまったのでは、羽ばたくべき想像力もそれ合わせて小さくなってゆくに違いない。
私は、ことを強いて戯画化して言うのではない。問題は、この30年、日本映画がシナリオの「中身」を「コンテンツ」と呼ぶようになり、「キャラクター」を「キャラ」と呼ぶようになり、それに見合ってすべてが「情報化」したことにあるのだ。
すべては情報の断片、でなければ断片の情報で成り立ち、それを統合するなにものもいない。製作委員会は、何社もの出資で成立し、作品の「コンテンツ」はその最大公約数、もしくは最少公倍数で成り立ち、プロデューサーとは名ばかりの、
どこのブローカーだと思わせる人物ばかり(としか、少なくとも自分は会ったことがない)。
確かに上記の「情報化」と「製作委員会」で日本映画の売り上げは上向いてきたが、この30年、見るべきほどの日本映画が何本あるというのか?

私は「映画」のレベルというものは、それを生み出す社会の知的な、財政的な、そして観客的なレベルの積算によると考えてきた。
例えば、台湾映画がその人口や資本力に比べて目覚ましい成果を挙げ、アイスランド映画もまた同様、世界に通用する映画をつくることが出来る等々……。
そこには、中国語に言うプロデューサーの「画策」、つまり、資本の間を縦横に走り回り、映画を成立させるプロデューサーがいて、それに応える監督・スタッフがいて、かつそれを十分に理解する「観客」がいる。
日本の観客と言えば、「スマップ」か「V6」か「○○○○」が出ていないと、金輪際映画などには行かない、アタマが腐った観客ばかりだ。
いや、彼らに恨みがあってこういうのではない。
むしろ、こうした状況をつくってしまった、製作者側、いやそうしなければ映画の世界で生きていけない体制をつくってしまった「社会」のほうに責任があるのだ。

日本映画の中で健闘しているのはアニメ業界だが、私に言わせれば、アニメは
人間の俳優がかもし出すサムシングをすべて捨象して、極端に抽象化して伝える「幼児退行化」以外のものではない。
このように「映画」はその社会のもつ力の総和、もしくは潜在力そのものによっているというのが私の考えだが、私の見通しは明るくない。

とりわけ、いまのテレビを見よう。
いまのテレビドラマの中に、どれがオトナの鑑賞に堪えるものがあるだろうか?
コロナ禍の中で、どの局も「バラエティー」中心になり、そのバラエティーもなんの工夫もない、ただテレビに出たい一心の芸人の「スタッフ向け」の笑いに満ちている。こんな中で、どうして「芸」が磨かれるというのか。
そして、そんなテレビを見せられて、そうした「感性」に馴致されていくのが観客というものである。

異論があるかもしれない。
慌てるな、私はもう死んでいるのだ。
反論は、あの世で聞こう、などとノンキなことは言わない。
死ねば死にきり。
あの世などない。

<以下中断>