「東京物語」執筆日記

題名:「東京物語」執筆日記

ご覧になりたい方は、上をクリックしてください。




翻刻:宮本明子
解説:渡辺千明

野田高梧は戦前から戦後に掛けて46冊の日記、手帳を残した。
「蓼科日記」とは別に書かれたそれは、先年山内久・玲子夫妻つまり娘夫婦の書庫から発見され、現在同志社女子大学助教・宮本明子さんの手によって順次翻刻が進められている。
当、新・雲呼荘としては、その翻刻をこのホームページ上に連載し(会員限定ページ)、熱心なファンや研究者の興味に応えてきたつもりであるが、連載が「昭和28年」にたどりついて、やや様相が変わってきた。
昭和28年といえば、それは言うまでもなく野田と小津が湘南、茅ヶ崎館に籠って『東京物語』を書いていた年である。
また秋にはそれが公開された年でもある。
既に刊行されている『全日記・小津安二郎』が、この年の後半約半分が残念ながら欠損しているのと比べ、この「野田日記」は昭和28年1月1日から同年12月31日まで正確に日を刻んでいるのである。
そこには足掛け四か月にわたる『東京物語』執筆の記録はもちろん、脱稿後も野田が小津に同行して尾道ロケハンに行っていること、尾道では宿の主人や女中たちから方言の取材をして、当時まだ珍しかった「テープレコーダー」を使って方言を採取していること、また帰京後も足しげく小津組のセットに行き、しばしばラッシュを見ていること……等々が書かれている。
さらにこの日記を注意深く読む人には、なによりも『東京物語』が後半から書き始められたこと、近くに住む監督・清水宏の意見を聞いていること、また杉村春子の「美容師」という設定は野田の中学時代の同級生の言葉がヒントになっていること、さらには同宿の競輪名人の影響で野田・小津に競輪が大流行していること、しかしこの年小津が早くも「首の腫物」に悩んでいること、また新進女優・乙羽信子を連れて挨拶に来る新藤兼人の姿や、野田家に足しげく通ってくる『早春』のモデルになった青年たちとの交流の様子、果てはこの年、長女玲子と山内久の結婚問題が起きてそれに苦しむ野田の姿……等々にも興味をそそられることになるだろう。

そして、なによりも驚くのは、同じ部屋に寝起きしている野田と小津の「雑談」の多さである。
あるときは「サルはどうして人間になったのか」から「そもそもキリストとはどういう人間か」まで、野田と小津は、ときに同宿の松竹の若手を巻き込んでしばしば語り明かしているのである。
私たちは、この「雑談の多さ」に、彼らがいかにして「独創」に達したかの一つの秘密を見る。
そしてそれを許した当時の映画づくりを羨み、嫉妬し、ひがみ、「しかし野田さんと小津さんだからなア……」と結局は溜め息をつくほかはなかったのである。

私たちは、現在映画というものの“最高峰”の一つとされているこの『東京物語』
生成の記録を、広く世界に公開したいと考える。
そこには、現行の映画づくりとは次元を異にした、真の意味での「脚本家」と「監督」の共同作業が生きていると思うからである。
またこの日記の公開は、従来の「小津研究」に新たな角度から光をあてることにもなるだろう。

最後に一つ――この連載を「会員限定」ページで読んできてくださった読者のみなさんには、ここでお詫びするしかありません。
しかし、3か月分をコマギレ的に読むよりも、1か年通年で読む野田日記は、また新しい発見をもたらしてくれるものと信じます。
各方面のご寛恕をお願いします。

                              (渡辺千明)